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令和5年度・第60回夏季県外史跡踏査報告

 「近世・近代に関東・日本を動かした政治拠点・駿府の歴史的変化~駿河国の首都・駿府の地域社会と歴史・文化を探究する~」をテーマに、2023年8月17日(木)実施。講師は伏見鑛作氏(清見寺ボランテイアガイド)、廣田浩治氏(静岡市歴史博物館学芸課長)にお願いした。
 午前8時15分小田原駅西口を出発し、東名高速で静岡県静岡市方面へ。清水ICを降り、静清バイパスを東に進む。庵原川を渡り静岡市埋蔵文化財センター(井上馨「長者荘」跡)を過ぎて興津宿・清見寺【国史跡】へ到着した。講師の伏見氏と合流し、清見(きよみが)関礎石前で寺の創建について聞いた。正式名は巨鼇山興国清見禅寺といい、7世紀後半、天武天皇治世に東国への備えで設置した関に仏像を安置する小堂宇を建てたのが起源。14世紀前半に足利尊氏が日本十刹七位として約六千坪の寺域に七堂伽藍を建立し、臨済宗妙心寺派の中本山となった。朝鮮通信使揮毫の「東海名区」扁額を掲げた総門をくぐり、1889(明22)年に静岡まで開通した東海道本線を跨ぎ山門から境内へ。
 咸臨丸の碑、臥龍梅、鐘楼を見て文政年間に改築された大方丈へ。壁面には琉球王子筆の「永世孝享」額や、朝鮮通信使扁額(「清見寺朝鮮通信使詩書」【ユネスコ世界記憶遺産】)が飾られ、中央仏間には天皇家、徳川家位牌が奉安されている。大玄関の血天井(梶原景時関係)、庭園【国名勝】、家康手習いの間、書院(明治天皇御成の間)を見学し、2階から在りし日の風光明媚な清見潟景勝に想いを馳せ、西園寺公望の興津坐漁荘跡へ向かった。
 1919(大正8)年建築の実物は1970年に愛知県明治村へ移築保存されており、跡地に現在の建物が復元された。「興津詣で」の目的地となった建物には、琵琶を家業とした西園寺家当主の数寄屋趣味と、最後の元老という政府重鎮に対する警備上の工夫が随所にみられる。ここで伏見氏とお別れし、静岡市中心部の駿府城へと向かった。

 ▲清見寺総門(朝鮮通信使「東海名区」扁額)
 正午、今年1月に開館した静岡市歴史博物館ヘ到着、講師の廣田氏から家康の「首都」という側面から近世駿府についてお話を伺った。「大御所政治」期の駿府は八千軒・人口3~4万人と推定され、10万人の京都には及ばずとも開府当初の江戸に匹敵する大都市だった。2016年からの発掘調査により、国府や今川館から受け継がれる駿河国の政治的中心としての城郭の姿が明らかになった。1605年に家康が居城とすると、天下普請により大修築が行われ、朱印船貿易時代に南蛮船も来航し、最初の朝鮮通信使や琉球使節、オランダ商館長らも家康が城内で謁見した。常設展、企画展(「東海の名刹臨済寺~義元・家康ゆかりの禅寺」)を見学し、昼食・自由行動で東御門・巽櫓から天守台発掘現場、発掘情報館きゃっしる、家康公像、家康公お手植え蜜柑などを見学し、静岡浅間神社へと向かった。
 市民から「おせんげんさん」と親しまれる地は、駿河国総社の神部神社、富士山本宮浅間大社から勧請された浅間神社(富士新宮)、大歳御祖神社の三社と境内社四社の総称。人質時代の家康が元服式を行った場でもあり、幕府の手厚い保護があった。1813(文化10)年完成の楼門は力神など荘厳な彩色彫刻が目を引く(令和2年化粧直し完了)。大拝殿や本殿は改修中だったが、一部足場幕が外され外観を見学することができた。山上の賎機山古墳や境内の大河ドラマ館を自由見学し、日本平ロープウェイ経由で久能山東照官【国指定】へと向かった。
 1617(元和3)年遺命により秀忠が久能山に家康を葬って東照社の造営を開始し、家光が寛永期に日光山の造営と同時に多くの建造物を改修、整備した。本殿【国宝】、楼門、唐門などを見学しながら家康廟にお参りし、博物館では家康着用の金溜塗具足など多くの文化財を見学した。午後5時、日本平にて今回の踏査を無事に終え帰途についた。
(川崎市立川崎高校 阿部功嗣)

(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会報第91号より)